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1999年11月号/第95号  [ずいそう]    

祈り
逢坂 誠二 (おおさか せいじ ・ ニセコ町長)

私は、あまり信心深いほうではないと思う。また、自分の宗教観とはどんなものなのかについて、深く考えてみたこともない。昭和30年代生まれ、私くらいの年齢のものとしては、それが普通なのかもしれない。

しかし、信心深くないからといって、宗教について無関心というわけでもなく、最終的に世界を動かすのは、理論や理屈、あるいは経済の力ではなく、宗教の力によるのかもしれないと強く思うこともある。この宗教というものについては、ある種の恐れや畏敬の念すらもっている。

このような私も、いろいろな「祈り」の場面に接する。その祈りは、葬送、祈願、祝賀などほんとうに多種多様だ。手を合わせる、頭を下げる、拍手を打つなど、その形も様々だ。こうした祈りは、誰に教えられたものでもなく、もの心がつき始めたころから見よう見まねで、形から覚えていったものだと思う。

子どものころの私にとっての祈りは、非日常的と感じられる雰囲気の中で行われることが多かった。そして、その非日常性の醸し出す重たい空気に押しつぶされそうななかで、祈りの形をとるのが精いっぱいだった。

その後、成長するにつれ、祈りで何かをお願いすることに象徴されるように、自分の心の中にはっきりとした祈りの対象が生まれた時期があったように感じている。つまり、何かの具体的な心のこだわりをもって祈るのである。

しかし、そんな時期もつかの間、今の私の祈りは、まったく違ったものになっている。それは、様々な場面で祈りの形をとると、瞬時に心が空(から)になるのである。この状態、これをなんと表現すべきなのか、私はその言葉をもち合わせてはいない。それは空虚という、「空しさ」や「虚ろさ」とは無縁のものである。空っぽ、無なのではあるが、それはとても充実した無なのだ。

手を合わせる、頭を垂れる、目を瞑るなど、祈りの形は違う。しかし祈るということ、それだけで心が平穏の無で満たされる。今、私にとって祈りの場面は、大切な瞬間だ。

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