ウェブマガジン カムイミンタラ

1996年09月号/第76号  [ずいそう]    

ガラスの街にて
池田 緑 (いけだ みどり ・ 画家)

風薫る5月、札幌、夕張、苫小牧、帯広の各地で創作活動をしている北海道在住の女性画家5人が集まって、その名も「北彩5人展」と題するグループ展を東京銀座の画廊で開催した。

柳の緑も初々しい銀座界隈だったが、ここで1週間を過ごしてみて気が付いたことがある。この街は、いたる所で「自分」を見ることができるということである。「自分」といっても、自分の生き方や内面ではなく自分の外観のことだから、「自分の姿」と言ったほうが正確かもしれない。

朝な夕な、あるいはランチタイムなどに歩道にヒールの音を響かせ、都会流(?)に人の流れに乗って勢いをつけて歩いていると、次から次へと何とたくさんの「自分の姿」に出会うことか。もの珍しいことも手伝って、「自分の姿」に「やあ」と手を振りたくなる。

都会にこんなにもガラスが多いなんて!ビルディングの窓やドア、ガラスのように光る壁も含め、道の両側に間断なく続くガラス、ガラス、ガラス。これらの面々がピカピカに磨き込まれて、梅雨(つゆ)にはまだ間がある初夏の陽光に輝いている。このガラスが、通りすがりの人の姿を分け隔てなく一瞬に映し出しているのだ。

が、だんだん分かってくる。これでもかこれでもかとガラスにひっきりなしに登場する「自分」に出会っていると、一応はその日の「自分」をチェックすべくチラリと一見はするものの、初めのあの親密な気分はどこへやら、そのうちに無視するどころか、あまつさえ目をそむけるようになるのだということが…。

ガラスに映る「自分」は、日々の生活や心の持ちようが変化しない限り、決して変わることはない。たとえ衣服や靴が違っていても、きのうと同じ「自分」であり、何の変哲もない「自分」なのだ。どうりで都会の人びとがガラスに映る「自分」の姿をまったく見ようとしないわけだ、と納得がいった。

正直なところ、あんなにはガラスに「自分の姿」が映らない北のまちに帰ってきて、ほっとしている。

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