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1985年03月号/第7号  [特集]    オホーツク海

一片の氷晶が、やがて海を埋め尽くす自然のドラマ 流氷はたくましい生活力と優しさの気風を培う
オホーツク海・流氷と沿岸の人びと

  海が凍る―この壮大な自然のドラマは、厳しくも優しい北海道の冬の象徴的な風物詩です。流氷は、年明けまもなくから知床の沖でもうまれ、事実上、そこが流氷の南限。ひとひらの氷晶がみるまに「はす葉氷」となり、氷塊となってオホーツクの海を埋め尽くすメカニズムとエネルギーは、ただ驚くばかりです。そこに自然の営みの偉大さをみ、ロマンを感じて人生のしるべを見い出す旅人がいます。そして、その季節を穏やかな心で迎え、なおたくましく生き抜く沿岸の人びとがいます。

流氷初日

今年の流氷が、例年より10日も早くオホーツク海沿岸の雄武沖に姿をみせた、と報じられたのは1月3日でした。その流氷帯はさらに南下を続け、紋別、網走の沖合いに広がっていったのです。

そんなころ、気象台やテレビの観測報道に耳を凝らし、目は空と海と風をながめながら流氷の訪れを心持ちにしている人がいました。菊地慶一さん(後出)です。

菊地さんの住まいは網走市内の高台にあって、ほぼ180度の視界でオホーツクの海が見渡せます。

毎年、その日を待ち続けてきた菊地さんは、流氷が肉眼で見えるところまでやって来る日を感じでつかむことができるのです。「きょうは来るな」

その日は、朝から何回かソワソワと外へ出てみるのです。すると、はるか水平線上にサァッと白いものが見えます。「あっ、やっぱり来たな」

急いで家に戻り、こんどは双眼鏡を持ち出して沖を見ます。かすかだけれども、あれは確かに流氷の帯です。「あっ、来た」

もう一度、同じ言葉を吐いて、菊地さんは自分で納得するのです。1月6日、お昼に少し前のこと。それが菊地さんにとっての「流氷初日」です。そして、その時から四月中旬まで、菊地さんの流氷の季節が始まります。それは、オホーツク海沿岸に暮らす、すべての人にとっても流氷の季節の到来なのです。

オホーツク海の80%を埋め尽くす、その量は1兆トンとも

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北の海・オホーツク海は、北海道本島の約20倍の広さがあります。その80%以上が4ヵ月程度のあいだに、平均1メートルの厚さに凍ってしまいます。

その氷の量はどれくらいか、丹念に計算した学者の説によると、およそ1兆トンだといいます。その膨大な氷を生成し、消滅させるエネルギー量はどれくらいなのでしょうか。

海水を凍らせるには、海水1グラムから80カロリーの熱を奪わなければならないといいます。このエネルギーを石油でつくるとすれば、少なくみても63億トンの原油が必要ということになり、わが国の原油消費量の25年分を使わなければなりません(田畑忠著「流氷」=北海道新聞社)。さらに、その氷を解かすにも同じ量のエネルギーが必要なのです。それを半年の間に、しかも毎年やってのける自然の力の偉大さは驚くばかりです。

流氷誕生のメカニズム

流氷とは何なのでしょうか。氷には川や湖の水が凍った「陸氷」と海の水が凍った「海氷」があります。そして、岸辺や湾などに凍りついて流れないのを「定着氷」海を流れる氷を「流氷」といいます。北海道でみられる流氷はオホーツク海でうまれた「海氷の流氷」で、氷河や北氷洋の氷山が流れて来たものではありません。この地球上では、オホーツク海より南の渤海湾でも流氷はうまれます。しかし、非常に浅いところでの部分的な結氷で、規模からいってオホーツク海が流氷の南限であることに間違いないようです。

低緯度で暖かく「閉じた海」のオホーツク

北海道の約4分の1の沿岸に広がるオホーツク海の面積は1,528,000平方キロ、日本海の1.5倍の広さがあります。北は北緯62度、南は北緯44度にわたり、その長径は約2,000キロにも及びます。

水深は平均838メートル、もっとも深いところは千鳥北西部の海盆で3,370メートル。しかし200メートル以浅の大陸棚は全体の42%にも達しています。そして、西側の日本海とはタタール海峡(間宮海峡)と宗谷海峡でわずかにつながるだけ、太平洋とは国後島からカムチャツカ半島までクリル諸島(千島列島)が並んでいて、外海との交流の少ない「閉じた海」なのです。

この海には、シベリア大陸から夏のあいだに流れ出る膨大な水量のアムール川がとうとうと注ぎ込んでいます。もちろん、それは淡水であり、一説ではその年間流量をオホーツク海全域に広げると1.3メートルの深さにまで達ずる(前出の田畑忠著「流氷」)ということです。このことが、じつは流氷生成のメカニズムに大きなかかわりを持つことになるのです。

塩分濃度による多層構造が対流に大きな変化を

イメージ(流氷が発達してつくる「氷脈」)
流氷が発達してつくる「氷脈」

アムール川をはじめ陸からの大量な淡水が流れ込むオホーツク海の塩分濃度は、当然低くなっています。太平洋など普通の海水は1キログラム中に34~35グラムの塩分がありますが、オホーツク海の水には32グラムくらいしか含まれていません。この0.2%という微妙な差が大変なことなのです。海水の比重は塩分と水温に大きく左右されます。塩分が多ければ重くなり、温度が低ければ、これも重くなって沈むわけです。

オホーツク海は表層に淡水が大量に流れ込んで濃度の薄い海水で覆われているため、水深40メートルくらいに厳然とした層ができ、氷のできやすい条件からいえば、オホーツク海を極めて浅い海にしています。

もう一つ、海水を冷やすのは強い風と荒い波です。これが海表から奪う熱を多くし、いっそう冷却時間を短くするのです。塩分を含む海水はマイナス1.8℃で凍ります。海水が凍ると塩分の濃い水(ブライン)を下に押しやり、海底のそれほど冷やされていない海水との間に「中冷水」の層ができる3層構造になっているのです。

寒い気候になって海の表面がどんどん冷やされると、海水は下へ下へと沈んでいきます。普通なら、海全体を凍結するまで冷やしきらないうちに夏になってしまいますが、オホーツク海の場合はその対流が浅いところで行なわれているため、極めて短い期間で氷結温度に達してしまいます。

流氷は11月下旬に、サハリンの北側・シャンタルスキー付近で最初に生まれますが、もちろん知床半島の北側にいたるまで北海道沿岸の沖合いでも流氷は次々につくられます。地元の人たちはソ連領で生まれて流れつく流氷を「舶来氷」と呼び、北海道近海で生まれる氷を「国産氷」と呼んでいます。無骨できめの荒いのは長旅をしてきたソ連産の流氷、艶やかでスマートなのは国産の流氷です。

流氷と人間とのかかわり

流氷は人間に何をもたらすでしょうか。ことに沿岸に住む人と、旅人の受け止め方、感じ方にはかなりの違いがありそうです。

昔は海まで凍る寒村で半分は憎しみの対象

つい何年か前まで、海に生きる漁民にとって「半分は憎しみの対象でしかなかった」いうのは、近海でホタテなどの漁業を営む藤田孝太郎さん(紋別漁協青年部長)。藤田さんが船を陸に揚げたのは12月29日。

その日から、流氷が完全に去る「海明け」の日までの3ヶ月半は海で操業ができないのです。まだ漁家が貧しかったころ、漁民は流氷の季節が来ると、みんな出稼ぎに行ったものでした。海まですっぽり雪と氷に閉ざされる寒村に住むという暗いイメージは、だれもが持っていたのです。

流氷の季節への順応が優しさ穏やかさの気風を培う

イメージ(流氷の胎児「氷晶」)
流氷の胎児「氷晶」

16年前、ほとんど最初といってよい流氷のエッセイ集『白いオホーツク』を出版した菊地慶一さん(網走南ヶ丘高校教諭・児童文学作家)も「流氷と人間のかかわりは稀薄だった」とみています。沿岸に住む人は流氷には背を向けて、といっても拒否するのではなく順応して生きて来たというのです。その順応の精神がなんらかの形でこの地方の人たちに影響しているのではないか。それは、気力のなさにも通じるが、もう一方では優しさと穏やかさの気質となって、あたたかく静かな人たちをはぐくんできたと、多くの人はいいます。

流氷に立ち向かう海獣ハンターだが、その怖さはだれよりも

人びとがじっと耐えているあいだ、果敢に流氷に立ち向かっていく人もいます。トドやアザラシ(トッカリ)などの海獣を捕獲する、いまはただ一人のプロ・ハンター渋田一幸さん(紋別市在住)がその人です。戦前から北洋の荒海で海獣とりをはじめ、この道一筋に生きたその渋田さんが、肌で知った流氷の怖さを語ります。

「白い波を蹴立てて走っていた船のまわりの海が、急にドロドロに凍ってくる。そんな時は、いままで青く晴れていた空が鉛色に変わり、空気中の水分が凍ってキラキラと輝きだす(ダイヤモンドダスト現象)。その情景は絵に描いた地獄のようだ」。そこからいち早く逃げ出さないと、エンジンの冷却水が凍って船が動かなくなります。

氷塊に船がはさまれた時も危険です。何トンもある氷塊が潮波に持ちあげられて船に覆いかぶさって来たり、氷と氷にギュンと締めつけられて船が持ち上がり、転覆させられることもあります。しかし、一夜明けるとその氷に隙間ができていることがあり、その時に脱出したり、氷塊のあいだに船をひそめて水路の開くのを待つのです。

「流氷は人を殺すこともあるし、守ってくれることもある」決して自然に逆らうような無理をしないのが渋田さんの哲学です。

流氷に“始源”をみ、悠久を知り、あたたかさを感じる

流氷に魅せられ、流氷に人生のしるべを求める人たちもいます。

イメージ(村瀬真治「無題」)
村瀬真治「無題」

三十数年前に初めて流氷と出会い、ほとんど流氷だけを描いてきた画家の村瀬真治さん(紋別市在住)は、大自然の悠久な姿に「始源」という村瀬さんの芸術の主題を見い出したのです。「自然よ、いつまでも美しくあれ―そういう神への祈りと同じ気持をもって、流氷と繰り返し対話を続けてきました」と語っています。そんな村瀬さんを作家・三浦朱門の父、三浦逸雄さんは「彼は氷霊を感じ得た1人にちがいない。彼の流氷の作品にはどれも一脈のあたたかさがあり、そこはかとなく感じられる愛情が一貫してにじみ出ているからだ」と称えます。村瀬さんの子息・千樫さん(石狩町立花川中学校教諭)も「神を迎える儀式のために生まれたという芸術の作品の中には、アウラ(霊気・香気)が立ちのぼるといわれる。求道者の姿をもって氷雪と対話してきた父の作品からアウラを感じてもらえたら、父にとってこれほどうれしいことはないだろう」と思いやるのです。

紋別市の北大低温科学研究所流氷研究施設で20年間流氷研究に取り組んでいる青田昌秋さん(同施設長=理学博土)も流氷には尽きせぬ魅力を感じている人です。ひと通リ流氷のメカニズムを説明してくれたあと「広大な空間スケールの変化をこれほど短時間に示してくれるのは地球上に流氷以上のものはない」と言いきります。そして、もの音一つしないその中にいると「時間」とはまさに運動の反映なのだということを実感させてくれるというのです。

「ビュービュー吹いていた風がある時ぴたっと止むことがある。風に逆らって必死に耐えていた時には1秒1秒を感じているくせに、その静けさの中では時間の流れがストップしてしまう。そこへカモメが一羽飛んで来ることによって、また時間は動きだす。流氷は僕にそんな体験をさせてくれた」と。さらに言葉をついで「解氷期のころ、青い海に純白の氷が浮かんでいるコントラストは何ものにも再現できない美しさであり、春の訪れを告げるあたたかさがある」というのです。

流氷のあたたかさは菊地さんも語ります。「波を静めサカナを守る流氷は“海の白い布団だ”という言葉が僕は好きです」と。

必ずめぐってくる春を待ってたくましく生きる人びと

一方、流氷地帯に佳むアイヌの人たちにとって、アザラシは貴重な冬の食糧源であり、交易資源でした。だからトッカリ(アザラシ)猟にでるときは四方の神に祈りをし、身を浄めて出掛けたといいます。特にサハリンに住むアイヌはトドをカムイ(神)と呼んでいました。ギリヤークやウィルタの人たちの気質は自然に挑むヨーロッパ型だという説があって、流氷にも果敢に立ち向かう生活をしていたと思われます。

北海道に住む人たちのすべてが風雪に耐え、長い冬の間の食糧を保存する方法などさまざまな生活の知恵をうみだして、たくましく生きてきました。海が氷に閉ざされた漁師たちも冬漁の盛んな浜へ出稼ぎに行き、残った女や年寄りたちは網をつくろい、漁具の手入れをして、やがて必ずめぐってくる春を待って出漁の準備をしていました。

流氷を新しいオホーツク文化の創造に

イメージ(気象衛星ノアから送られてくる流氷帯の映像を観測する流氷研究員)
気象衛星ノアから送られてくる流氷帯の映像を観測する流氷研究員

この十数年来、沿岸の経済は安定してきました。底引き網や沖刺し綱の船は大型化し、釧路などへ回港してスケソウ漁に向かいます。ホタテやサケ、毛ガニ、タコ、カレイなどをとる沿岸漁業者も、いまでは流氷のお陰で海を休ませることができ、資源保護に役だっていることに理解を深めてきました。浜から出稼ぎの姿は消え、落ち着いて春漁の準備をし、ものを考える余裕ができてきました。自治体や商工会などは、流氷を観光資源として全国へのPRが活発です。各地で20年ほど前から開催されだした「流氷まつり」も定着し、紋別では期間中、市の人口の7倍にものぼる延べ21万人の観光客を動員するまでに発展してきました。さらに今年は、藤田さんたちで企画した『あいすらんど共和国』や『流氷のっとりランド網走』(鈴木雅宣実行委員会事務局長)がイベントの幅を広げます。みんなそれぞれに、流氷を暮らしの中に生かしていこうという機運を高めています。

「これまで、流氷は旅人のものだった。しかし、これからは地元の人たちの手で流氷文化を育てたい。流氷と向かい合った時のあの緊張感を心に刻み、従来の絶望感のような思いを突き抜けていこうとすれば、必ず何かを大きく生み出すことになる」。

それが文芸活動や工芸の創造なのか。あるいは北方の風土に根ざした生活慣習や風俗なのか、それは今後の課題です。しかし、かつても独自の文化が栄えた地域。菊地さんも、また新たなオホーツク文化の創造に強い決意と期待を抱いています。

流氷の生涯

流氷の生涯には幼年期から壮年期まで、形状によってそれぞれ呼び名がついています。

氷 晶

イメージ(流氷の胎児「氷晶」)
流氷の胎児「氷晶」

海水がマイナス1.8℃まで冷やされると、海中で小さな氷の結晶が生まれます。ちょうど雪の結晶に、よく似た結晶で、氷は水より軽いため、どんどん増え続けては海面に浮かび上がってきます。

氷 泥

イメージ(海をシャーベット状にする「氷泥」)
海をシャーベット状にする「氷泥」

氷晶が増え続けて互いにつながり合い、ドロドロのシャーベット状になって海面を覆います。今年の場合は、正月中からオホーツク沿岸の浜辺はこの氷泥に覆われて、翡翠(ひすい)色に染まって大きくうねっていました。

板状軟氷

氷泥は、一夜の寒気でまだ軟らかい広い板状となって海面を覆ってしまいます。

はす葉氷

イメージ(縁どりがきれいな「はす葉氷」)
縁どりがきれいな「はす葉氷」

この板状軟氷はうねりで容易に割れ、お互いにぶつかり合って縁がまくれあがり、ちょうどハスの葉のような形になります。これが流氷の少年期でキ。

氷 盤

イメージ(はす葉氷がつらなって、やがて氷盤に)
はす葉氷がつらなって、やがて氷盤に

はす葉氷の隙間の海水が凍ってしまうと、1枚の板のようになります。そして、その厚さを増し大きな氷の盤ができあがります。

氷 塊
氷盤は波にもまれてきしんだり割れたりしながら重なリ合い、きまざまな形の塊ができて巨大化していきます。

氷丘、氷丘脈 
氷塊がさらに重なりあい、そこに雪が積もったりすることもあって10メートル、15メートルもの高い丘ができます。時にはこの氷丘が遠々と連なって氷の山脈をつくります。これは氷丘脈と呼ばれています。そして、これが流氷の壮年期。

解氷期

イメージ(流氷が日に日に溶けて海明けも近い)
流氷が日に日に溶けて海明けも近い

3月下旬から、氷は少しずつ解けだします。ちょうどそのころに春一番が吹きばしめて、海の動きが激しくなってきます。水温も日ごとに上がり、流氷は壊れながら海流に乗って沖の方に出ていきます。

海明け
海の流氷が50%以下になると漁師たちは「海明け」といって、冬のあいだ上架していた船を降ろし、出漁の準備を始めます。だいたい3月下旬からで、オホーツク海沿岸にもようやく春の訪れが感じられます。

幻 氷
流氷が視界から消えた5月前後、はるか水平線上に白いものが浮かんで見えることがあります。これは光の屈折でできる蜃気楼。そのおぼろな姿は、去るものの名残りを思わせて哀しいばかりの光景です。

流氷の成長速度
氷は薄い時ほど成長しやすくちょっとした隙間はすぐ埋まって、翌朝には見渡す限りの氷野になるということはよくあります。しかし、3センチくらいにまで成長すると伸び方は半分にと、成長はぐんと遅くなります。

流氷の厚さ
氷の厚さを決めるのは、海水から何カロリーの熱を奪うかによリます。オホーツク海では、南の方で50センチ、北の方で1メートル程度が平均的な厚さで、北極海の氷でも2二メートルくらいなものといいます。オホーツク海の氷塊が10メートル以上もあったりするのは、何層にも重なり合ったためなのです。

流氷の速さ
流氷とは流れているから、そう呼ぶのです。速度は風と海流によりますが、風速の数%の速さで動くということです。オホーツク海の風速はさほど強くなく平均は秒速5メートルといいます。すると流氷は時速1キロ前後のスピードで移動することになり、ひと晩に10メートルくらいは軽く流れることができるわけです。しかもオホーツク海の氷は低緯度であるだけに薄くて柔らかいため、移動性は高いのです。

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