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1993年09月号/第58号  [特集]    浜中町

全国4千人のファンから寄せられるラブコール 霧多布湿原と楽しむ心を自然保全につなげる
霧多布湿原 浜中町

  
 『特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約』、一般に「ラムサール条約」と呼ばれているものの国際会議が今年6月、アジアで初めて釧路市で開かれました。このとき釧路地方浜中町は、釧路湿原、クッチャロ湖、ウトナイ湖に次いで、町内の海岸線に広がる霧多布湿原の条約締結に立候補し、隣町の厚岸湖・別寒辺牛湿原とともに貴重な登録湿地の指定を実現しました。その陰には、10年前から「霧多布湿原大好き人間、この指止まれ」と呼びかけた『霧多布湿原ファンクラブ』が大きな役割を果たしています。「自然を守ることは、自然を愛すること」と、会員はひたすら霧多布湿原のすばらしさにラブコールを送りつづけ、楽しみながら自然の大切さに理解を深めていくというユニークな自然保護運動の道をあゆみつづけています。

まるで別世界の光景に魅せられたひとりの青年

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いまから13年ほど前の正月、東京本社から札幌支店に転勤になってまもない大手食品会社の青年社員、伊東俊和さんは商用で根室市に向かう途中猛吹雪に遭い、浜中町で足止めされてしまいました。旅館で一夜を過ごした翌朝、目の前に白一色の光景が広がっていました。東京の都心部で生まれ育った伊東さんには、見たこともない広大な銀世界。それは大きな感動でした。そのため、霧多布がすっかり気に入り、なんども訪れるようになると、季節ごとに湿原の景色は違っているのです。

4月半ばを過ぎると、枯れ草のあいだからフクジュソウ、エゾエンゴサクが顔をほころばせ、5月になるとユキワリコザクラ、クロユリが可憐に花を開きます。6月、純白の羽毛をなびかせるワタスゲが見渡す限りに咲きそろい、紫のヒオウギアヤメ、クシロハナシノブ、紅色のハマナスやハクサンチドリなどが絢欄と美を競います。そして、7月中旬は金色のエゾカンゾウの世界。そのすぐあとに咲く、紫のノハナショウブ。8月になると道東の東部地域はもう秋の気配。湿原は、エゾミソハギ、サワギキョウ、エゾリンドウに衣がえです。そして、9月早々、ウメバチソウが花の季節のフィナーレを飾るのです。

「そんな花畑の中を、タンチョウのつがいが悠々と歩いています。ここは別世界だと思いましたね」と、この光景に魅せられた伊東さんは、やがて、こんな自然の中で暮らしたいと思うようになりました。

3年後、伊東さんは思い切りよく会社を辞めて浜中町の住民になり、目の前に霧多布湿原の花園が広がる道道沿いに小さな喫茶店を開きました。

その店に、客として通いだした地元の漁業青年が瓜田勝也さんでした。

イメージ(霧多布湿原ファンクラブのログハウス)
霧多布湿原ファンクラブのログハウス

「わたしら田舎で暮らしているものは、できれば都会に出たいと思っているのに、都会人が逆に引っ越して来るなんて。霧多布はそんなにいいところかと、まるでカルチャーショックでした。しかも、われわれはあたりまえの風景と思っていた湿原をすばらしいと言う。自分の住んでいるまちを、これほどまで好きだと言ってくれる人に好感が持てました」。しだいに、この店には湿原大好き人間が集まりはじめました。そんな仲間7人で『きりたっぷ湿原にほれた会』を発足させたのは、1983年のことです。

グループで、夏はエゾカンゾウの花見をしながらバーベキューに舌つづみを打つ。冬は雪の湿原をめぐって、歩くスキーを楽しむ。そして、語らいは子どものころの遊びの思い出から、まちの歴史の話へ。「ともかく、集まるだけで楽しかった」(瓜田さんの話)という雰囲気のなかで、湿原をベースにした話題を広げていきました。

湿原とのふれあいを広げようと「ファンクラブ」の呼びかけ

「自分たちだけで湿原を楽しむのはもったいない。もっと大勢の人に湿原の良さを知ってもらおう」「湿原のそばに住んでいながら湿原のことも、まちのことも意外に知らない。自分のまちを知ること、それは湿原を大事にすることにもつながるのではないか」そんな会話が交わされだしました。

じつは、伊東さんの胸には、以前、自然保護運動に熱心な人と同宿したとき、『都会から来る人はみんな自然を残したいと言うが、けっして自分で運動しようとはしない』と言われたことが潜在的に記憶されていました。また、湿原の状態が年ごとに少しずつ変化していることも気がかりでした。そのため、新しい形での自然を守る運動を試してみようという気になっていたのです。

「自然とかかわることは、本来、楽しいものであるはず。反対運動は、ほんとうに緊急を要する場合は仕方ないだろうが、好きな自然を愛し、大切に残したいという運動なら、みんなで楽しみながら進めることができるのではないか」。それはメンバー共通の思いでした。ともかく、会報を発行しようということになりました。そこには昔話や子どもの遊びの思い出、湿原の花や動物の話を楽しく掲載していて、自然保護を訴え骭セ葉はひとことも見あたりません。

しかし、この湿原を自分たちの手で守りたいという思いがありました。そこで、道路沿いの見事な花畑の土地を借り上げようということになったのです。そこは、かつて昆布を運ぶ運搬馬の共同牧場だった土地。10数人の地権者に分かれた私有地ですが、趣旨に理解を示した地主たちの好意で40ヘクタールの借り上げが実現しました。この土地を維持管理するためにと、『ほれた会』を『霧多布湿原ファンクラブ』(事務局・088-14 北海道厚岸郡浜中町仲の浜、コーヒーハウスてんぼうだい 電話0153-62-2853)に発展させました。1986年8月のことです。

イメージ(霧多布湿原ファンクラブの会報)
霧多布湿原ファンクラブの会報

会則は『浜中町内外に住む多くの霧多布湿原を愛する人びととともに、いつまでもこの雄大な自然が楽しめるよう、霧多布湿原の保護を楽しく積極的に進める』ことを目的とし、会費は、個人が年間1千円、団体は1万円。その資金で土地を買い取るのではなく、借り上げるという、当時では全国に例のない、まったく新しい方式のナショナルトラストでした。

思い出の霧多布、まだ見ぬ湿原に熱いラブコール

このことが、マスコミによって報道されました。すると、全国からの入会希望と、熱いラブコールの手紙が殺到しました。

☆霧多布という素敵な名前、土地の人たちの人情、すばらしい自然。結婚して思うままに旅ができなくなりましたが、どこへ行きたいかと聞きかれれば北海道、そして霧多布と言いたくなるほど思い出深いところです。(静岡県の女性)

☆ヒッチハイクで、クルマの人が「いいところがあるから行こう」と言って、連れて行ってくれたところが霧多布でした。日本にこんな良いところがあるのかと思うくらい、霧にけぶった霧多布の断崖や一面に咲いたアヤメの群落に目をうばわれました。北海道のどの地を訪れても霧多布以上の感慨はありませんでした。(埼玉県の女性)

☆学生のときに霧多布へ行き、とても良い思い出となっています。目を閉じれば景色が浮かんでくるほど、印象に残っています。(府中市の男性)

☆私は中学2年生ですが、国内で自然が次々に破壊されていくので「私たちが大人になるころ、もう自然なんて残っていないのではないか」と不安でいっぱいでした。そんなときに新聞で「霧多布湿原ファンクラブ」のことを知りました。まだ見たことのない、そして初めて聞く地名だったにもかかわらず、ぜったいに良い、きれいなところに違いない、と勝手に想像し、入会したいと思いました。(広島市の女子中学生)

それは、予想をはるかに超える反響でした。まず発足2ヵ月で、会員は1千人を超えました。2年半後には3千人に達しました。その後、受け入れ体制の限界から積極的な呼びかけはやめたのですが、入会希望者はさらに増えつづけ、現在ほぼ4千人にもなっています。

地主は活動の力強い協力者 借地は“ありがとう方式”に

イメージ(7月上旬、湿原は一面エゾカンゾウの花園に)
7月上旬、湿原は一面エゾカンゾウの花園に

ファンクラブの活動の特色は、どことも敵対しないことです。「地主さんこそ活動の理解者であり、協力者だ」との心構えでつきあいを深めてきました。地権者のひとり、菅野正衛さんは次のように話します。「まあ、一種の自然保護運動だろうし、気心のよく知らない人に土地を貸したら取り上げられてしまうんでないかと心配する人もいた。だが、よく話を聞いてみると、メンバーたちの純粋な気持ちに、ほれたんだね。あの人たちなら信頼できる。どうせ使っていない土地だから、貸すことにしたのさ。すると、全国の会員からたくさんの手紙が来る。大勢の人が湿原を見に来て喜んでくれる。なんだかありがたいような、誇らしいような気持ちになって、自分の子や孫たちにこのままの湿原を残してやりたいと思うようになったね」。

そして4年目の契約更新のとき、菅野さんらから無料貸与の申し出を受けたのです。感激したファンクラブの運営委員たちは、早速このことを会報で全国の会員に知らせ、この貸借関係に感謝をこめて“ありがとう方式”と呼ぶことにしました。

「地主さんたちが無料で土地を貸してくださるとは、いやあ浜中町には良い人がいるなあ。私も会員として、その地主さんたちにありがとうと言いたいのです。湿原の良さにひきつけられた多くの会員の気持ちが地主さんたちの心を動かし、地主さんたちの心にひかれてさらに多くの人が会員になってくれると、湿原はいっそう強力に守られていくことでしょう」という手紙が、早速送られてきました。

町も自然保護を目的に湿原の私有地を買い上げる

イメージ((左)霧多布湿原の冬景色 (右)晩秋の霧多布湿原)
(左)霧多布湿原の冬景色 (右)晩秋の霧多布湿原

こうした地主さんたちの寛大な協力の基盤には、一次産業に生きる人たちの自然観があるようです。「浜中町は人口8400人の小さなまち。産業別就業者の60%が漁業と酪農などの一次産業で占められ、自然と産業、生活が一体となって暮らしています。湿原は、泥炭でろ過したきれいな水を海に送る水がめ的な機能を果たし、プランクトンを養生して沿岸資源の昆布や魚介類を増やしている。そのことを、地域の人たちは昔から肌で知っていて、けっこう賢い利用をしてきたのです」と、町役場商工観光課長の荒井義信さんは説明します。

そんな基盤のもとで、「ラムサール条約の国際会議が釧路で開かれることが決まったとき、霧多布も登録湿地の指定を受けようと町議会で決議されました。湿原は町の貴重な財産なので、積極的に保全対策を進めています。その一例として、売りに出ていた土地2ヵ所を、自然保護の目的で買い上げています」と、行政側の取り組みを語ります。

そんな動きのなかで、私有地12ヘクタールを町に寄付する人もあらわれました。「あまり使っていない土地です。ラムサール条約に登録したというので、少しでも町の役に立つことなら」と寄付者の大竹敏雄さんは話しています。

湿原を中心に据えた豊かな生活のあり方を求めていく

今年から、地元の住職である松浦明恭さんが会長に就任しました。

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「ファンクラブが借り上げた私有地は、野鳥公園のそばの奥琵琶瀬(おくびわせ)にも増えました。その2ヵ所に『地主さんの協力により、この景観がいつまでも楽しめるよう、全国の霧多布湿原ファンによる借り上げ方式によって、湿原の保全が進められています』という標識を立てました。そして、そこに全長700メートルほどの木道を設置して、だれもが湿原と間近にふれることができるようにしています。会員には折にふれて会報を発行し、湿原の様子を伝えながら心をこめた交流をはかっていますし、絵はがきや湿原マップも作り、会員一人ひとりに送って喜ばれています。町民は湿原の価値を再認識してくれていますし、行政側も保全に積極的です」と、発足いらいの活動を振り返ったあと、
「どちらかと言えば、これまでは町外に向けてのファンづくりが主体になっていて、地元の会員はまだ200人くらいしか参加していません。ですから、今年からは地元のファンづくりを柱にしました。地方に暮らす人たちはとかく沈滞しがちですが、21世紀に向けて人間生活の豊かさには田舎なりの求め方があるはずです。そのなかのひとつとして、自然を中心に据えた生活のあり方を模索していく。具体的には、湿原にマッチした町並みづくりを考えたいと思います。そして、せっかく縁が結ばれた全国の会員と町民との交流を積極的にすすめ、自然と人との交流を楽しみながら、心の安らぎ、豊かな心が持てるようになりたい」と、新たな方向をめざしています。

ファンクラブは現在も自然増のかたちで年間2百人前後の入会がつづいています。

☆東京の空は日に日に暑くなってきました。ホコリと排気ガスにまみれて仕事に行く毎日。辛抱強く生きています。霧多布湿原は、そんな私にとって心のささえです。

☆ウ~ム、とてもきれいな絵はがき。たくさん欲しいところだけど、グッと我慢して2部送ってください。みんなに自慢しちゃいます。霧多布に行きたくて行きたくてバタバタしています。

☆送ってくださった霧多布湿原マップをながめては、ため息をついています。すぐにでも行ってみたい気にさせます。

☆マップを拝見しながら、10年前に訪れた地を指でたどって思い出しています。こんど訪れるのは、いつの日か!

会員たちの胸をうつラブコールも、いまなお途絶えることがありません。

町民の思想を高め、行政自らも行動で示す

イメージ(小林 章さん)
小林 章さん

浜中町 町長 小林 章さん

浜中町は漁業と酪農による典型的な第一次産業のまちです。一次産業は自然と密接に結びついた産業ですから、自然を大切にすることが基本的な考え方です。そのため、地元の自然と産業を生かしてくのが地についた活性化につながるのだと思います。

霧多布湿原は、1922年(大正11)に泥炭形成植物群落として国の天然記念物、1955年(昭和30)に道立自然公園に指定された貴重な町の財産です。昨年の国際的な湿原フォーラムのときにも、人家や道路、生産基盤のあるところでよく保存されてきたと評価されました。私たちは、この湿原を子々孫々に引き継ぐ宝として守っていかなければなりません。しかし、湿原の3分の1は民有地であり、その保全には注意深い対応が必要です。このため、町は買収地2ヵ所を自主財源で買い上げるなどの措置をとりました。しかし、財政規模の小さい自治体では限界があるので、国際的なモデル湿原として国や道にも保全対策に協力してくれるようはたらきかけています。

いま、地球環境への不安が高まり、自然保護は他人事ではなくなっています。そのことが町民一人ひとりの思想になるよう、行政自らが行動で示すことで町民の理解と協力を深めていきたいと思っています。

霧多布湿原の大部分は、ミズゴケ主体の高層湿原

イメージ(湿原と北太平洋と霧多布市街地が一望できる琵琶瀬展望台)
湿原と北太平洋と霧多布市街地が一望できる琵琶瀬展望台

氷河時代が終わって、いまから6千から5千年前ごろは縄文海進によって海岸線が陸地深くに入り込んでいました。その後、しだいに海水が引きはじめ、ほぼ2千年前に現在の海岸線が形成されますが、海岸線が引くたびに砂丘がつくられ、いまも湿原のなかにいく筋もの砂丘の跡が海岸線と平行に並んでいるのを見ることができます。この砂丘の列によって海から切り離された浅い湖が、やがて霧多布湿原をつくったのです。海から閉ざされた浅い湖は、しだいに淡水化された沼地になっていきます。水面にはエゾヒツジグサやネムロコウホネなどの水生植物が育ち、岸辺にはヨシやスゲが群生して低層湿原を形成します。さらに、その上にはヌマガヤなどの群落が育ち、中層湿原となります。

これらの植物は、海霧と寒冷な気候のために枯れた植物がなかなか腐食せず、半分は土、半分は植物の状態の「泥炭」となって積もっていきます。そして最後に、栄養分の少ないところでも育つミズゴケが重なって高層湿原を形成します。

イメージ(新築された霧多布湿原センター)
新築された霧多布湿原センター

釧路湿原の大部分が低層湿原で占められているのに対して、霧多布湿原は海抜5メートル以下の低地にもかかわらず高層湿原と中層湿原が大半に広がっています。これは日本では霧多布だけです。学術的にも貴重なこの湿原を保存するため、1922年には湿原のなかの803ヘクタール「泥炭形成植物群落」として国の天然記念物に指定されました。霧多布湿原はもっとも長いところで南北9キロ、東西4キロ、総面積3,168ヘクタールで、釧路湿原、サロベツ原野に次いで第3位の広さです。ここには約200種の湿原植物が生い茂り、タンチョウやアオサギをはじめとした230種の野鳥が営巣したり、エサを求めて飛び交います。また、哺乳類もキタキツネ、エゾシカ、ヒグマなど約20種を確認していますが、さらに調査がすすめられています。

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