ウェブマガジン カムイミンタラ

2005年03月号/ウェブマガジン第2号 (通巻122号)  [特集]    穂別町

田んぼ de 映画づくり ~第2弾はファッションショー~ 穂別

  お年寄りたちがつくる映画「田んぼdeミュージカル」で全国的に話題となった穂別町で第2弾が制作されています。その名も「田んぼ」をそのままフランス語にした「La riziere」(ラ・リズィエール)、別名「田んぼdeファッションショー」です。お年寄りたちが田んぼの中でのファッションショーを企画し、実際に行ってしまうというドキュメンタリー風の物語。2005年(平成17年)6月には一般公開される見込みです。

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【第1弾「田んぼdeミュージカル」の予告編ビデオ】
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【第2弾「田んぼdeファッションショー」の予告編ビデオ】

夕暮れの田んぼでファッションショー

北大のポプラ並木をなぎ倒すなど風速50mの記録的な強風で北海道各地に大きな被害をもたらした2004年の台風18号。その暴風が吹き荒れる9月8日の札幌で映画「La riziere」の撮影は始まりました。

札幌市西区にある介護・福祉の総合企業、特殊衣料(池田啓子社長)の体験型ショールーム。ファッションショーの衣服を担当する同社のスタッフと出演者が話をしたり、試着するするシーンです。監督伊藤好一、撮影星勇といった制作側のメンバーは前作と同じですが、出演者は入れ替わりました。前作で出られなかった人々が銀幕の男優、女優として登場します。

イメージ(ファッションショーには「田んぼdeミュージカル」の村人ダンサーズも登場)
ファッションショーには「田んぼdeミュージカル」の村人ダンサーズも登場

そして迎えた9月26日のファッションショー当日。刈り取りを終えた田んぼの中に大がかりなステージがつくられ、その背景は昔なつかしい稲のはさがけ。夕やみの中、ライトに浮き上がったステージでは、さっそうとした足どりで、あるいは車いすで、モデルたちが次々に登場します。車イスの散歩で使える保温性の高い服装、パークゴルフなど遊びで使えるスポーティーな衣服、機能的でしゃれたデザインの作業着、楽に着替えができる冠婚葬祭用の礼服などが次々に登場します。車いすにも明るい装飾が施されています。なんだか生活が楽しくなりそうな、そんな気持ちにさせてくれるファッションショーです。

映画のカメラは4台。それ以外に新聞、テレビなどのカメラがその姿をとらえます。ステージの周りの観客たちはエキストラ。熱心にメモをとる記者はアパレルメーカーかデパートの仕入れ担当、といったところです。ファッションショーは1時間弱で終わりました。

ヤマ場となるファッションショーが終わっても映画づくりはまだまだ続きます。つぎ当てだらけだった貧しい時代、軍服が一張羅だった苦しい時代など、長い人生を歩んできた老人たちにはファッションに対するそれぞれの思いがありました。それを1つ1つ積み重ねて物語に仕立てます。

「田んぼdeミュージカル」では映画監督の崔洋一さんが20回も穂別町を訪れ、熱心に指導してくれました。また町の事業として取り組まれたため、必要な予算は確保できました。今回は技術的にも予算的にもまったくの自主制作。自分たちのあらゆる能力を総動員し、あるいは他者に協力を求め、つくりあげていきます。前作の「田んぼdeミュージカル」という映画づくりは、老人たちを大きく変えました。ごく普通の老人だった人々が、すべてに積極的なポジティブ・シルバーになったのです。

映画づくりは酒席から

イメージ(田んぼdeミュージカルのB影風景(中央奥が指導した崔さん))
田んぼdeミュージカルのB影風景(中央奥が指導した崔さん)

2001年11月、崔洋一さんの講演会「映画づくりはひとづくり」が町内で開かれます。講演が終わったあとの懇親会の席上、のちに「田んぼdeミュージカル」の監督となる伊藤好一さんと崔さんとがこんなやりとりをしたそうです。崔さんは千歳市の小学校でビデオ映画制作にかかわったことがありました。
「あちらが小学生なら穂別は老人だ」
「普通の映画じゃよそと同じ。ミュージカルはどうだ」

こうして町民の4分の1以上が65歳以上という穂別町で、老人によるビデオ映画づくりが始まります。先立つ費用については町が町政施行40周年記念事業として取り組むことになり、北海道文化財団などからも補助を得て、計280万円の予算。翌2002年7月から本格的な撮影に入りました。

そして2003年3月、ついに映画は完成試写会へとこぎ着けます。出演者の平均年齢は74歳。補助したスタッフを除いて、監督もカメラマンも老人という老人づくしの映画です。参加者は総勢125人に上りました。

この映画づくりは当初からマスコミに注目され、完成が間近となった2003年2月にはその製作過程がNHKの「にんげんドキュメント」で紹介されました。また地方の時代映像祭コンクール市民自治体部門奨励賞など数々の賞を受賞しました。

イメージ(田んぼdeミュージカルの一場面)
田んぼdeミュージカルの一場面

映画はこんなあらすじです。1943年(昭和18年)、大豆づくりの農家、源次郎が戦地におもむきます。1947年(昭和22年)、源次郎は復員しますが、人が変わったように無口になり、米づくりを始めてひたすら働きます。彼をじっと待っていたのは、出征前に見合いをした千代でした。村の人たちの温かい勧めで、2人は結婚し、冷害や洪水と闘いながら稲作に励みます。

1980年(昭和55年)、源次郎の水田が宮内庁の献穀米に選ばれ、2人の苦労がようやく実を結びました。しかし減反政策が進むなか、息子の和富はメロン栽培へと転換をはかり、源次郎と対立します。そんな時に千代が病いに倒れ、和富の嫁 里子は、病床の千代から戦後夫婦2人が懸命に生きてきた話を聞くのです。そして戦争のためにあげられなかった源次郎と千代の結婚式をしようと思い立ちます…。

穂別はこんなマチ

穂別といえばまず思い浮かぶのがメロンでしょう。夕張メロンと同じ系統のIKメロンなどが作られ「穂別メロン」のブランドとして有名です。映画では米づくりにこだわる主人公とメロン栽培の拡大をはかる息子が最初に登場します。息子といっても映画に出たのは子ども役を除いてみんな65歳以上ですから、予備知識のない観客は、老齢の友だち同士が話しているのかと錯覚しますが。

穂別町(1961年=昭和36年までは村)は鵡川という川の上流の山間に開けた町です。この町には1986年(昭和61年)に廃線となった富内線という鉄道が走っていました。日高本線の鵡川町から穂別町を通り、平取町さらには日勝峠の麓の日高町まで82.5㎞に及ぶ長いローカル線でした。穂別町は日本一の産出量を誇るクロームや石炭などの鉱山があり、豊かな森林に恵まれた林業の町でもありました。その輸送のため、1923年(大正12年)に富内まで線路が来て、戦後に日高町まで延長されたのです。

「田んぼdeミュージカル」ではかつて盛んだった造材の仕事歌が実演されています。農業は戦前、大豆などの畑作主体でしたが、戦後は水田がつくられ、皇室に献上する「天皇陛下献穀米」の生産者も輩出しました。映画ではその「刈り取り清め払い式」の模様も再現されています。そして現在は稲作のほか特産のメロンやその他の野菜類を産出する農業の町となっています。

昭和30年代のピーク時には1万人を超えていた町の人口は今では4千人足らず。2006年3月に鵡川町と合併し「むかわ町」になる予定です。

北のイーハトーブ

こうした歴史をもつ穂別町ですが、単なる山あいにある静かな町ではありませんでした。じつはユニークな活動を続けてきた町なのです。「田んぼdeミュージカル」に至るまでには、その下地というべき歴史がありました。

戦後まもないころ、初の民選村長となった横山正明さんは村民の暮らしの向上のために次々に施策を打ち出します。国保病院をつくって65歳以上の医療費を無料にし、高校をつくれば貧しい生徒の授業料を免除としました。大学へ行く学生には奨学金制度をつくり、道内で初めてスクールバスを走らせました。

イメージ(「銀河ステーション」として保存されている旧富内駅)
「銀河ステーション」として保存されている旧富内駅

そして民衆の心のよりどころとするため提唱をしたのが宮沢賢治が描いた架空の理想郷「イーハトーブ」をつくる運動でした。この理想郷づくりは度重なる試練によって実現を見ませんでしたが、その足跡は富内にある通称「賢治観音」(1947年建立)に残されています。

イメージ(空に向かって延びる線路)
空に向かって延びる線路

およそ40年の時を経てその試みが再びスタートを切ります。1986年の富内線の廃止をきっかけとした「北のイーハトーブ」という地域おこしです。旧富内駅は「富内銀河ステーション」と名づけられて駅舎や施設が保存されました。2001年には蒸気機関車を走らせ、その線路の先は、宇宙飛行士毛利衛さんの発案によって、空に向かって延びています。

駅の備品は映画「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影で貸し出され、大活躍しました。「銀河ステーション」の駅舎前には宮沢賢治が設計した花壇「涙ぐむ目」があり、これらは住民のボランティアによってつくられました。

劇場は自然の中に

1990年4月1日には「世界ほら吹き大会」を開催しました。この大会はエイプリルフールに大きなホラを吹いて地域おこしをしていこうというもので1982年に帯広市で生まれました。以来各地で大会を開き、第9回大会として開かれたのです。穂別はそのあと、この大会の事務局を引き受け、道内各地のまちおこし集団と交流を図っていきます。

また同年には北海道ミニ独立国サミットが開かれています。道内では各地に次々とミニ独立国が誕生し、それぞれがユニークな活動を始めていました。穂別は当時、独立国がありません。そこで「独立植民地国」と呼んでいたそうです。

1991年からは宮沢賢治の童話「極東ビヂテリアン大会見聞録」にちなんだ野外の野菜パーティを合わせた講演会などのイベント「ほべつ銀河鉄道の夕べ・ビヂテリアン大会」を数年開きました。

野外詩劇「ポォの森の太陽まつり」は1997年から3年間。町内そして全道各地から詩人、劇団員、ミュージシャンらが集い、観客たちは鳴り物をもって参加する全員参加型の野外詩劇。出演者400人という壮大なものでした。

2001年に「銀河ステーション」で機関車を走らせたときにも野外詩劇のスタイルがとられています。宮沢賢治の詩が朗読される中を機関車が走りました。

次々にユニークな企画をものにしていく穂別町は、道内のまちおこし活動でも中心的な位置を占めるようになっていきます。北海道の地理上の中心が富良野市あたりになることから富良野は「北海道のへそ」と呼ばれていますが、地図でその下にたどっていけば穂別町。そこで「北海道の急所だ」なんて呼び合いました。

こうした活動を側面から支えていくのが1989年に結成された「ほべつ町民劇場」です。キャッチフレーズは「空も森も川も、まちこそ我らの劇場である」。立派な建物はなくても、屋根つきのステージはなくても、自然そのものが自分たちのステージだという発想です。それが「田んぼde」につながっていくのです。

一方、町では「マザーズ・フォーレスト賞」を1993年に創設します。最初は毎日新聞文学賞の副賞として町内にある「母の森」での植樹の権利などを贈るというもので、その後この文学賞が廃止されたため、独自の歩み始めます。初回の93年には作家の奥泉光さんが受賞し、94年には該当者なしでしたが95年は映画「月はどっちに出ている」でキネマ旬報ベストテン第1位となった崔洋一監督が受賞しました。

イメージ(斉藤征義さん)
斉藤征義さん

こうした行政・民間双方のユニークな活動の裏方として活動していたのが町の職員で「田んぼdeミュージカル」の脚本を担当した斉藤征義さんです。詩人で宮沢賢治の研究家としても知られています。映画づくりでも、そもそも台本という基本中の基本を書ける人がいなければ、始まらなかったでしょう。

ロケは血圧測定から

そんな歴史をもつ穂別町で映画づくりはスタートしましたが、かんじんの出演者がなかなか集まりません。田んぼdeミュージカル委員会代表の原田幸一さんはあの手この手で人集めに奔走しました。

イメージ(原田幸一さん)
原田幸一さん

「最初は適当なことを言って集めたよ。なにせミュージカルなんてだれも分からないんだから。メロン畑に行って『座っているだけでいい、話さなくていいんだから』と言って連れてきて、やっぱり話さなくてはならなくなったり。でもそれは最初だけで、撮影が始まったら、来ない人はだれもいなかったよ」

8ヶ月かけてつくられた「田んぼdeミュージカル」ですが、撮影は延べ30日に及びました。老人たちですから早朝からのロケも気になりません。朝7時の集合ではその前にみんな来ています。まず行われるのが町の保健婦さんによる問診と血圧測定です。

源次郎役の梅藤和男さんが69歳、千代役の棚橋幸子さんが68歳、監督の伊藤好一さんが73歳、委員会代表の原田さんが76歳、カメラマンの星勇さんが82歳、平均年齢が74歳という集団です。(いずれも映画完成時) だれだって体の悪いところを1つや2つは抱えています。

星さんはすべての撮影を担当しました。雨の中の撮影で1回風邪をひきましたが点滴をうってしのぎました。出演者は出番が終われば帰りますが、星さんたちスタッフは最後まで残ります。朝7時から始まって、帰るのは晩の7時ごろ。深夜の12時まで延びたこともありました。翌日も撮影があります。
「6時に朝ご飯を食べずに家を出て、途中でパンなんかを食べて。さすがに冬の12時はゆるくなかった。風呂に入って1杯飲んで、次の日また5時起きですから」

イメージ(星勇さん)
星勇さん

星さんはいつも小さな焼酎のびんを持ち歩いていたそうですが、途中でだれかに飲まれてなくなることもしばしばでした。

最後のヤマ場は苫小牧市のホテルを借りての結婚披露宴シーン。1日で終えなければならず、撮影は12時間以上に及びました。そして1人の脱落者もなく映画は完成します。

制作現場での一番の困難は、高齢とあってセリフがなかなか覚えられないこと。覚えてもすぐに忘れてしまいます。1シーンで3回や4回のやり直しは当たり前でした。穂別町に通い続けた崔さんの指導はさすがに厳しく、撮影現場で鋭い声が響くたびにみんな気を引き締めたといいます。

それでもやり遂げることができたのは年寄り特有の知恵があったためと脚本担当の斉藤さんは考えています。年をとればとるほど個性は強くなるのでしょうが、引き際もちゃんとわきまえている。自分のわがままが全体に影響を及ぼすということが分かっている。長年地域社会で生きてきた知恵が、途中で頓挫させることなく完成に導いたのです。

面影ビデオづくり

イメージ(本多紀子さん(左)と小龍真弓さん)
本多紀子さん(左)と小龍真弓さん

「田んぼdeミュージカル」を45分にまとめる編集作業は2ヶ月を要しました。1時間テープが55本、ほかに風景などのテープもあります。これをパソコンに取り込み、必要な部分を取り出し、つないでいくのです。技術と根気が必要なこの作業は3人(老人でなく熟年)が担当することになり、これも崔さんが指導に当たりました。

本多紀子さんと小龍真弓さんはその編集作業を担当し、徹夜になった日もありました。
「何を捨てるかで悩みました。崔監督から『うらまれるかもしれない』と言われていましたが、1度観てもらって直して、また観てもらって直してと。納得のいくものができたと思います」
「崔監督からは機械の操作から教えてもらいました。やりたいことは何なのかを聞いてから、教えてくれる。こっちが何をしたいかすぐに理解してくれました」

映画が完成したあと、その制作過程を再現するメイキング編をつくろうという話が持ち上がります。せっかく苦労して撮ったシーンが使われずにもったいないという気持ちもありました。しかし編集に使われた機器は音響・映像機器メーカーのローランドから無償で借ていたもので、映画が完成したら返さなくてはなりません。

そこに委員会のメンバーの1人が機器の資金50万円をポンと出してくれたのです。こうしてメイキング編の編集が始まりました。機器を常設する場所も定まりました。田んぼdeミュージカル委員会代表の原田幸一さんが経営していた電気店をやめ、その店舗を使わせてくれたのです。こうして町の中心部にスタジオとサロンができました。

あるとき出演者の1人が亡くなりました。そこでお通夜の席で映画づくりで撮っていた故人の映像を使って短いビデオ作品をつくりました。これが評判を呼び、個人の作品をつくって欲しいという要望がたくさん出てきます。125人の出演者には125通りのメイキング編ができるのです。映っているシーンが少ないならば、新たに撮影すればいいじゃないか。こうして「面影ビデオ」づくりが始まります。お通夜で、そして何年か後の法要で、ビデオは永遠に上映されるはずです。

エキストラ出演と出前指導

イメージ(帯広市でも老人たちによる映画づくりが始まっています)
帯広市でも老人たちによる映画づくりが始まっています

映画完成後は北海道はもちろんのこと全国で上映会が開かれました。お呼びがかかれば原田代表など委員会メンバーがそのつど出かけ、上映の前後に観衆の前でトークを行います。最初はぎこちなかった話しぶりも、回を重ねるうちにうまくなり、冗談を交えるまでになりました。

そんなときに穂別町と名指しされたのが商業映画のエキストラ出演依頼でした。2003年9月には「天国の本屋~恋火」の石狩浜のロケに21人、2004年5月には「北の零年」の夕張ロケに20人が参加しています。

穂別のエキストラは単なる素人集団ではありません。映画制作の現場をひと通り経験した映画人なのです。ロケで長時間待たされることも、映っているはずなのに本編ではカットされてしまうことも重々承知しています。

2004年(平成16年)夏のことです。隣町の子どもたちが町営キャンプ場を訪れました。夜に映画を観たいという希望でしたが、「田んぼdeミュージカル」を観るだけならつまらない。いっそのこと映画をつくってしまわないかと持ちかけました。そして子どもたちの中から監督、助監督、カメラマンといった役割を決め、カチンコの使い方から指導して20人くらいが出演する1分ほどの映画をつくってしまったのです。

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そこで穂別の人々は考えます。これは穂別だけでなくほかの地域でも映画を作れるのでないか。現実に帯広市では老人たちによる映画づくり、札幌市西区では保育園児と父母たちによる映画づくりが始まりました。いづれも穂別町から出張して指導しました。
「穂別映画祭。夕張映画祭とはまったくちがう映画祭ができるんじゃないでしょうか」

斉藤征義さんはそんなことを夢想しています。

次はセリフのない「田んぼde」

「田んぼdeミュージカル」に出演した人々がもっとも苦労したのはセリフでした。若い人なら難なく覚えられることが、高齢者にはなかなか大変です。

穂別の人々は毎月映画鑑賞会を開いています。その中に「おばあちゃんの家」という韓国映画がありました。山の中に住むおばあさんに預けられた孫が、最初反発し、無視していたものの、様々な体験を経て心を通わせていくというストーリーです。そのおばあちゃん役は素人で、しかも言葉が話せないという設定でまったくセリフがなかったのです。それが韓国で大ヒットしました。

イメージ(「La riziere」には高橋はるみ知事も出演します(写真中央が高橋知事))
「La riziere」には高橋はるみ知事も出演します(写真中央が高橋知事)

セリフがなくても映画はできる。そんな発想から「田んぼdeミュージカル」の次の作品「La riziere」(ラ・リズィエール)が生まれるのです。2004年9月27日には映画の核となるファッションショーの撮影が行われました。夕暮れの田んぼに特設ステージが設けられ、。モデルも進行役も老人たちです。10月には高橋はるみ知事が出演するロケが札幌で行われました。その後、追加撮影と編集を進め2005年6月には公開される見込みです。

こうした穂別町の取り組みは、高齢者でも新しいことに挑戦できることをまざまざと見せてくれました。またテレビカメラや編集機器など映画づくりの道具が高性能で安くなり、適切な指導を受ければ素人でも作品を生み出すことができることを示してくれました。その発信元である穂別で「穂別映画祭」が開かれることもあながち夢想ではないのかもしれません。

行政上の町の名前が「むかわ」になっても、その作品と穂別が文化を発信したという歴史の事実は永遠に残ります。それだけでなく、老人たちの躍動そのものが地域の伝統として根付き、元気な老人たちの映画の里であり続けるのではないでしょうか。

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若い社員の心をつかんだファッションショー

イメージ(特殊衣料 池田社長)
特殊衣料 池田社長

特殊衣料社長 池田啓子さん

映画「La riziere」は高齢者疑似体験セットや保護帽「アボネット」なども製造販売している介護・福祉の総合企業、特殊衣料の全面協力で実現しました。最終的には無報酬でしたが、それに勝るものを得たといいます。

「企業として何か楽しいこと、やりがいのあることをドーンと打ち出すことが、社員教育うんぬんよりもずっと効果があるんだなと思いました。基本はやりたいね、おもしろいねということだと思います。お祭り気分です。うちの若いスタッフはとにかくワクワクして、ほんとに元気になりました。なかなか通常の業務で若い人たちの心をつかむのは難しいんです。そういうときに大きなテーマをもらって期限も決まっていて。いいものをつくりたいという思いは一緒ですから、時間なんて関係なくやっていました。自分がつくったものがデビューするんですから」

映画づくりは、参加したみんなが積極的になるという不思議な力を持っているようです。

イメージ(田んぼdeミュージカルのビデオテープを発売中 1,800円)
田んぼdeミュージカルのビデオテープを発売中 1,800円


田んぼdeミュージカル関連の受賞歴

ほべつサウラァの帽子賞(02年12月)
毎日新聞・地方自治大賞奨励賞(03年2月)
地方の時代映像祭コンクール2003市民自治体部門奨励賞(03年10月)
北海道新聞北の未来賞(03年10月)
北のまちづくり奨励賞=北海道主催(03年11月)
ホクレン夢大賞優秀賞(04年3月)
結婚式シーンを再編集した「SHUGEN」が北海道映像コンテスト2004アマチュア部門最優秀賞(04年6月)
内閣府が実行委を「エイジレス・ライフ 社会参加活動事例」として選定(04年6月)

[株式会社 特殊衣料]http://www.tomoni.co.jp/

●田んぼdeミュージカル委員会

054-0211 北海道勇払郡穂別町字穂別55-11 原田方
電話090-3110-7413(斉藤)

※この特集でご紹介した動画は「田んぼdeミュージカル委員会」提供によるものです。無断で転用・転載することは禁じます。

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