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2002年11月号/第113号  [特集]    

夭折の画家の足跡をたどって
神田日勝 記念館

  開拓農民として十勝に生き、ほとばしる情熱を絵と農業に注いで32歳の若さで世を去った神田日勝。その画風は、灰色や茶色のモノクロームの作品群から、一転、カラフルで動的な絵となり、再び深く沈んだ色調の『馬』(絶筆)へと劇的な変化を繰り返しました。
 そんな夭折(ようせつ)の画家の足跡をたどるとともに、地域の美術館として活発に情報発信を続ける神田日勝記念館の取り組みを探ります。

ベニヤ板にコテで

イメージ(「馬(絶筆)」1970年 183.0×204.0cm 神田日勝記念館蔵)
「馬(絶筆)」1970年 183.0×204.0cm 神田日勝記念館蔵

神田(かんだ)日勝(にっしょう)記念館の最も奥まったところに、その絵はあります。絶筆の『馬』からは、馬体の温もりが湯気となって立ちのぼりそうなほどですが、途中でぷつりと切れた胴体が、画家を襲ったあまりにも早い死を、冷徹に突き付けています。

この衝撃的な絵を残した神田日勝は、1937年(昭和12)、東京に生まれました。8歳の時、東京大空襲から逃れ、一家で十勝管内鹿追町(しかおいちょう)に入植。農業経験のない都会からの疎開者が厳しい十勝の自然と向き合う困難は、想像に難くありません。

中学を卒業した日勝は、東京芸術大学に進学した兄に代わって、迷うことなく農業を継ぎます。入植後8年が過ぎていましたが、小規模農家は機械化がままならず、相次ぐ冷害に追い打ちをかけられ、農家としての日勝を取り巻く状況は厳しいものでした。開拓農家である日勝の畑には、まだ木の株がごろごろ残っていたし、土起こしから収穫まですべて馬と人の力で行なわなければなりません。そんな忙しい農作業から時間を奪いとるようにして生業の同志である馬を描いた『痩馬(やせうま)』が帯広市内の平原社(へいげんしゃ)展に入賞したのは、日勝、19歳の時。それはキャンバスではなくベニヤ板に、絵筆ではなくナイフとコテで描かれていました。このスタイルは、後に人からの依頼を受けてキャンバスを使ったものを除いて、日勝の作品を貫く特徴となりました。

イメージ(開館にあたって学芸員の資格も取った菅訓章さん。後方にあるのはカラフルで動的に描かれた「人間A」、「作品B」(ともに1969年)。)
開館にあたって学芸員の資格も取った菅訓章さん。後方にあるのはカラフルで動的に描かれた「人間A」、「作品B」(ともに1969年)。

神田日勝記念館の学芸係長、菅(すが)訓章(のりあき)さんはこう語ります。「いい画材が買えないからベニヤ板に描いたという説があります。ベニヤ板が一番手に入れやすかったことは確かですが、ペインティングナイフやコテで描く弾力感を好んだ日勝にしてみれば、ベニヤ板を選んだのは必然的なことではないでしょうか。茶色の絵の具が安いから茶色や黒の絵を描いたという説もしかり。牛や馬、板壁やゴミ箱といった日常の風景を丹念に描写した初期の絵に茶色は欠かせない色でしょう」。日勝は農民画家と呼ばれることを嫌い、「画家である、農民である」と明確に自己を区分して語っていました。

次々に現われる新時代

イメージ(「牛」1964年 144.0×144.0cm 神田日勝記念館蔵)
「牛」1964年 144.0×144.0cm 神田日勝記念館蔵

初期に描かれたモノクロームの『馬』や『板・足・頭のための習作』から『牛』を経て多彩な色が現われる『静物』、よりカラフルになる『画室A』『画室B』『画室C』、そして『室内風景』、絶筆の『馬』まで、馬に始まり馬に終わりながら画風は鮮やかに変化しました。その変遷を菅さんは、「死んだ牛はガスが溜まって大きく膨らんでくるので腹を裂かなければならない。その牛の腹の中を描くために鮮やかな赤を使った『牛』が最初の転機でした。さらに『静物』で身近にある農産物の色を散りばめることで農村のリアリズムを描き、『画室A』でエポック(新時代)を迎えるのです」と説明してくれました。

イメージ(「静物」1966年 143.9×183.0cm 神田日勝記念館蔵)
「静物」1966年 143.9×183.0cm 神田日勝記念館蔵

さらに菅さんは構図や題材の変化も指摘します。「『静物』や『画室A』で全体的にものを配していたのが、『画室B』で画面の重心が下の方に移り、『画室C』でさらに整理されてきます。この後、『画室D』を経て『画室E』で『室内風景』の重要なモチーフになっている新聞紙が初めて現われるのです。さらに1968年(昭和43)の『室内風景』と1970年の『室内風景』では、新聞紙の存在感が全く異なることもわかります」。菅さんの指し示す通りに絵を追っていくと、日勝が色の扉を開き、イメージをふくらませていく道程が浮かび上がってくるようです。

イメージ(「画室B」1966年 144.2×183.0cm 神田日勝記念館蔵)
「画室B」1966年 144.2×183.0cm 神田日勝記念館蔵

菅さんは日勝が創作に励んだ1960年代について、こう語ります。「雑誌のグラビアや新聞の写真といった情報が、十分に咀嚼(そしゃくできる程度の量と速さで様々なメディアを通して地域に入ってきました。日勝は地域の独自性に立脚しつつ、それを取り込んでいくことができたのです。僕は“地域が輝いていた時代”だと思います」。

一方、『神田日勝――北辺のリアリスト』の中で鈴木正實(まさみ)氏は、芸術論が活発に交わされたこの時代の影響を記しています。「十勝の作家たちとの交遊は、日勝に画風転開の契機をもたらしたようである。難解でつかみどころのない芸術論の内容はともかく、時代の熱っぽい空気に触れ、それが何か新しい方向に視点を動かすことをうながしたと思われるのである」。その新しい方向を「色彩への開眼」と論じています。

イメージ(「室内風景」1970年 227.3×181.8cm 北海道立近代美術館蔵)
「室内風景」1970年 227.3×181.8cm 北海道立近代美術館蔵

日勝自身はというと「長い間、単調な絵ばかり描いていスら強烈な色への欲望が押さえられなくなった。画風が変わったとしたら技術的な問題で、食うために農業をやりながら絵を描くいまの状態は変えられませんヨ」(『神田日勝――北辺のリアリスト』)と語っています。こうして日勝の画風は、わずか1~2年の間に大きな変化を遂げ、モノクロームの『馬』で終わりました。画家が土に還った時、絵もまた原点に戻っていたともいえそうですが、菅さんはそんな先入観に対して疑問を投げかけます。「『いろいろやってきたけど無理がある。もとに戻りたい』という言葉は確かにありました。でも、『馬』と『室内風景』は同時並行で描かれていたのかも知れないし、日勝にもっと時間があれば『馬』の背景に色が塗り込められたかも知れないのです」と。

未完の馬は、永遠に未完のまま。剥きだしのベニヤ板の上で、途切れた生を哀しみながら立ち尽くすばかりです。

住民が育てる記念館

さて、1993年(平成5)に開館した神田日勝記念館にはオープン年は6万6千人、2年目以降も毎年2万人が入場し、1人の作品を収蔵した美術館としては多くの来場者数を誇っています。そこには、日勝の絵の魅力はもちろん、開館までの経緯や運営の仕方にも理由がありそうです。

札幌や帯広では知名度が高かった日勝ですが、生前、地元では画家としてはほとんど知られていませんでした。没後2年経った1972年、鹿追町文化連盟の主催で「神田日勝遺作展」が開かれ、画家・日勝の存在に光が当たります。記念館建設への第一声を上げたのは、地元で文芸誌を発行する「らんぷの会」という青年グループでした。

「らんぷの会」とは、町内の幼なじみ4人を核にして文芸誌の刊行を目的に作られたグループで、ランプのような手作りの古き良きものへの思いを大事にしたいという願いから命名されたもの。会長の三井福源さんは「僕は日勝さんが亡くなる年の春に東京から帰って来たので残念ながらご本人には会えませんでした。でも、鹿追に、農業をしながらこんなすごい絵を描いている人がいたことに驚いたのです」といいます。

三井さんらは1977年(昭和52)に『神田日勝』を編集し、その後書きに、作品を展示収蔵する記念館のようなものが必要だと書きました。きちんとした管理のもとで保存しなければ、ベニヤ板の絵が傷んでしまうということを心配したからです。その後、絵葉書を作ったり、同人誌に記念館の設計予想図を発表したりと、町の人々に故郷の宝をアピールし続けます。

イメージ(らんぷの会が発行した『神田日勝』。表紙イラストは会長の三井さんが描き、東京で開かれた遺作展では100冊を完売したという本格的な仕上がりです。菅さんもメンバーの一人。)
らんぷの会が発行した『神田日勝』。表紙イラストは会長の三井さんが描き、東京で開かれた遺作展では100冊を完売したという本格的な仕上がりです。菅さんもメンバーの一人。

1984年(昭和59)にはらんぷの会と文化連盟有志で神田日勝記念館建設準備会を結成し、学習会を始めるとともに「準備会ニュース」を発行。同年末、準備会は建設実行委員会になり、企画部、情宣部会を設置して「記念館フラッシュ」を発行。文芸誌刊行を目的とするグループだけあって、広報活動はお手のものです。こうして町、支庁、道に訴え続けた結果、1986年(昭和61)には町議会で陳情が採択され、1988年に教育長を委員長とする記念館建設計画準備室が設置。1990年(平成2)に建設計画検討委員会の委員14名が決まりました。1991年、記念館準備室が設立され、町職員でらんぷの会の一員としても活動していた菅さんは自ら学芸員の資格を取って開館に備えました。そして1993年、ついに神田日勝記念館の開館となります。青年たちの思いが結実するまで、実に17年が経っていました。振り返って三井さんは「途中、意見の行き違いから喧嘩もしましたよ。マスコミが何度も取り上げてくれたことで運動も広がりましたが、意図しない紹介のされ方をして戸惑ったことも少なくありませんでした」と語ります。山あり谷ありの17年だったのでしょう。でも、日勝に共感する地域の若い感性が記念館建設の原動力になったことは、まぎれもない事実です。菅さんは先に“日勝が生きたのは地域が輝いていた時代”と言いましたが、記念館建設運動の中にも地域の輝きが見えるようです。

“ファミリー美術館”を形に

イメージ(館が発行する『神田日勝記念館だより』(年2回、3000部発行。鹿追町全世帯配布と全国主要美術館へ送付)と友の会発行の『画室』(年2回、300部発行。会員と道内主要美術館へ送付)。前者はおもに催しの告知と報告を)
館が発行する『神田日勝記念館だより』(年2回、3000部発行。鹿追町全世帯配布と全国主要美術館へ送付)と友の会発行の『画室』(年2回、300部発行。会員と道内主要美術館へ送付)。前者はおもに催しの告知と報告を

こうしてできた記念館は、運営も個性的で活気に満ちています。隣接する鹿追町民ホールの広いスペースを併用しながらユニークな視点で企画する特別展のほか、毎年、6月17日には開館記念の「蕪墾(ぶこん)祭」が行われ、今年はコンサートの後、十勝産のワインとチーズが並びました。8月後半には命日を悼む「馬耕忌(ばこうき)」が行なわれ、さらに、今年からは12月に「生誕祭」も計画されています。批判されがちな箱物行政の対極をいく意欲的な取り組みですが、そこには前館長・高橋揆一郎さんの「住民に開かれた“ファミリー美術館”にしたい」という就任時の言葉が生かされています。“ファミリー美術館”とは、地域の風土に溶け込んで、子どもからお年寄りまで皆が気軽に訪れ、美術に親しめる場所でありたいという願いをひと言で言い表したもの。ちなみに蕪墾祭のネーミングも高橋さんによるものです。

イメージ(8回目を迎えた今年の「馬の絵作品展」には過去最高の1696点が集まりました。審査は地元教育関係者、画家、記念館関係者によって行なわれ、函館・的場中2年の田中美穂さんが文部科学大臣賞に選ばれました。)
8回目を迎えた今年の「馬の絵作品展」には過去最高の1696点が集まりました。審査は地元教育関係者、画家、記念館関係者によって行なわれ、函館・的場中2年の田中美穂さんが文部科学大臣賞に選ばれました。

さらに館では、毎年、全国の小中学生を対象に「馬の絵」を募集しています。日氓ェ馬の絵を多く残したこと、その背景にある北海道開拓と馬との深い関わりから馬の絵となったわけですが、道外から寄せられる作品には、牧場や乗馬だけでなく、流鏑馬(やぶさめ)をはじめ伝統的な祭の馬が描かれ、審査する側も人と馬の多様な関わりに改めて気づかされることも多いそうです。

こうした多彩な活動をサポートしているのが、神田日勝記念館友の会です。日勝の世界を深く理解し記念館を愛する160人の仲間たちで、今年、記念館よりひと足先に創立10周年を迎えました。会員は、町内、道内はもちろん、日勝を卒論のテーマにした茨城県の女子大生や、大雪山登山を目的に毎年、来道する埼玉県の男性などもいて、全国的な広がりを見せています。会報『画室』に綴られた日勝の絵への思いや芸術鑑賞ツアーの感想からは、美術とともにある暮らしを志向する人々の温かなつながりが感じられます。日勝の画業は、深く大きく人の心を結んでいるのです。

日勝は、こんな言葉を残しました。「結局、どう云う作品が生まれるかは、どう云う生き方をするかにかかっている。どう生きるのか、の指針を描くことを通して模索したい。どう生きるのか、と、どう描くのかの終りのない思考のいたちごっこが私の生活の骨組みなのだ」。自らの生に対する誠実な問いかけは、これからもずっと人々の心を揺さぶり続けることでしょう。


イメージ(29歳の神田日勝)
29歳の神田日勝

神田日勝略年譜

1937年(昭和12)
 12月8日東京市板橋区練馬南町(現・東京都練馬区練馬)に、父・神田要一、母・ハナの次男として生まれる。姉2人と兄1人がいる。昭和17年に妹が生まれる。
1945年(昭和20)8歳
 東京大空襲を経験。8月、一家は戦災者集団帰農計画に基づく拓北農兵隊に加わって渡道。8月14日、鹿追に着くも、翌日終戦。
1953年(昭和28)16歳
 鹿追中学校卒業。営農を継ぐ。
1956年(昭和31)19歳
 「痩馬」制作、帯広市内の平原社展に初出品して奨励賞となる。
1957年(昭和32)20歳
 「馬」制作、平原社展に出品して平原社賞となる。
1960年(昭和35)23歳
 第15回全道展に「家」が初入選。
1961年(昭和36)24歳
 第16回全道展に「ゴミ箱」が入選、道知事賞となる。
1962年(昭和37)25歳
 高野ミサ子さんと結婚。第17回全道展に「人」が入選。
1963年(昭和38)26歳
 第18回全道展に「板・足・頭」を出し、会友推薦となる。
1964年(昭和39)27歳
 長男生まれる。第19回全道展に「飯場の風景」を出品。第32回独立展に「一人」を出し初入選。
1965年(昭和40)28歳
 第4回独立選抜展に新作「飯場の風景」を出品。第33回独立展に「馬」と「死馬」の2点入選。
1966年(昭和41)29歳
 第5回独立選抜展に「牛」を出品。第21回全道展に「静物」を出品、会友賞を得て会員推挙。第34回独立展に「画室A」入選。
1967年(昭和42)30歳
 第6回独立選抜展に「画室C」、第22回全道展に「画室D」を出品。第35回独立展に「画室E」入選。
1968年(昭和43)31歳
 長女生まれる。第7回独立選抜展に「室内風景」を出品。第23回全道展に「人と牛B」、同地区作家展に「晴れた日の風景」を陳列。第36回独立展に「人と牛C」入選。
1969年(昭和44)32歳
 第8回独立選抜展に「壁と顔」出品。第24回全道展に「作品B」を出品。第37回独立展に「人間B」入選。
1970年(昭和45)32歳8カ月
 第25回全道展に「室内風景」を出品。6月、牧草積みのさなか雷雨に打たれ風邪をひき込む。8月、体の不調が続き、25日、敗血症で永眠。(神田日勝記念館所蔵作品図録より抜粋)


幼なじみは思う なぜ、それほどまでに絵を……

イメージ(友の会会長の脇坂裕さん)
友の会会長の脇坂裕さん

神田日勝記念館友の会会長の脇坂裕さんは、日勝の小・中学校時代の一級上で、中学校では美術部の仲間でもありました。「日勝さんはとにかく絵が上手な子どもでした。転校してきた日の休み時間に鉛筆で動物や小鳥の絵を描いたのですが、それがものすごくうまい。皆、びっくりして自分のノートを破っては描いてくれとせがんだものです」と脇坂さん。

中学を卒業した日勝は、青年団活動にも熱心に参加しました。「夕方から集まって芝居の稽古をしたり体育会をしたり。画家ということをことさらに出しはせず、元気で明るく仲間に融け込んでいました」。特に脇坂さんの印象に残っているのが全道展初入選の時のこと。「袋いっぱいのりんごを買って青年団の皆に配ってくれました。自分たちには入選の重みがわからなかったけれど、本人はよほどうれしかったのでしょう」。

それにしても脇坂さんは、厳しい労働と画業を両立する困難を思わずにいられないといいます。「まして日勝さんは疎開者。柏林の株を抜き、畑を開くことから始めなければなりませんでした。耐えられず離農する人も多かったのに、いったいどうやって絵を描く時間を作っていたのでしょうか」と脇坂さんは一瞬、遠くを見た後、「自分は日勝さんの絵ほど感動する絵に出合ったことがありません。友の会で協力して記念館を後押ししA日勝さんが描いた開拓時代の精神を全国へ伝えていきたいと思っています」と語ってくれました。


日勝の思い出を胸に

イメージ(『室内風景』で、座り方のモデルになったのは実はミサ子さんでした。「座ってみればわかりますが、これはけっこう苦しい姿勢なんですよ」とミサ子さん。)
『室内風景』で、座り方のモデルになったのは実はミサ子さんでした。「座ってみればわかりますが、これはけっこう苦しい姿勢なんですよ」とミサ子さん。

今年の夏、日勝夫人の神田ミサ子さんは、隣町の新得町内に友人の根本サトさんと神田日勝美術原点館という小さな懇談の場を作りました。『室内風景』他数点の複製が展示されています。ミサ子さんいわく「絵を見て感動した方々と語り合える場が欲しかったのです」。「今は自分が本当に見たいもの、心に響くものを見る時代だと思います」とは根本さんの弁。

ミサ子さんは日勝との日々について話してくれました。「『なんで絵を描くの?』と尋ねたことがあるんです。すると日勝は私の理解しやすい言葉を選んでこう言いました。『他の人は知らないけど、僕にとって絵を描くことは、排泄行為なんだ。中から湧いてくるものを出さずにはいられない』と。ふつう、農家の昼は12時前に畑から上がって食事をし、少し昼寝をして体を休めて1時半にはまた畑に出るのですが、日勝は『ちょっと……』と言って絵の前に座ると、畑仕事を再開するのは2時になり3時になっていきました」。その労働を補うのはいつもミサ子さん。「でも、好きな絵を描いてさえいれば機嫌がよく、どんなに尻に敷かれても平気。いばらず朗らかな人でした」と語ってくれました。


絵を感じるとき

イメージ(小檜山 博(神田日勝記念館館長))
小檜山 博(神田日勝記念館館長)

2002年(平成14)より館長を務める小檜山博さんは、北方文芸賞、泉鏡花文学賞、北海道新聞文学賞を受賞した作家で、最新刊に『光る大雪』(講談社)があります。滝上町出身。

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絵に見方があるのかどうか、わからない。もしあるとすれば、ぼくなどは絵がわからないということになるのかもしれない。

ここ10年ほどでイタリア、スペイン、チェコ、フランスなどの美術館を何度となく見歩いてきたが、自分が絵を理解しているという思いはなかった。ダリの「自画像」を見てもピカソの「ゲルニカ」、ボッティチェルリの「プリマヴェラ」はじめ、ミケランジェロ、ラッファエロなど見ても、胸や体の底を重苦しい澱(おり)のような流動体がうごめくだけなのだ。

そしてぼくは、これでいいと思っている。素人としては感動が残ればいいと考えているからだが、ここ32年間、神田日勝の絵を見つづけてきて感じるものも、これと同じ生理的な感覚だ。そのあげく絵はわからないが、同じもの作りとして描いた日勝の心のありようと、できた作品の心はわかる気がするのだ。

たとえば日勝には数点の馬の絵があって、「痩馬」はじめ「馬」、「死馬」「開拓の馬」それに描く途中の馬などの絵は、すべて裸馬だ。これら農耕馬がみな馬具をつけていないというところに、日勝の無意識の内側を覗き見る気がするのだ。

農耕馬は畑を耕すにしろ丸太の運搬にしろ、間に1時間ほどの休みをはさむだけで長い時は1日に10時間も働く。その間ずっと体に馬具をつけたままだ。頭につける天井(てんじょう)、口にくわえるハミ、首には重いワラビガタとガラをつけ、背中には背ヅリを乗せてガラとヨビダシでつなぐ。腹帯で腹を絞め、尻尾にシリガイをつけて背ヅリとつなぐ。その格好で鎖の胴引きをつけて重いプラウや馬橇(ばそり)を引っぱるのである。日勝の描く胴引きで毛のすり切れた馬の腹を見ると、すぐに馬具をつけて苦しげにあえぐ馬の働く姿が想い浮かぶのである。

イメージ(1952年頃、プラウで畑起こしをする日勝。右側は兄・一明。(『画集 神田日勝』より))
1952年頃、プラウで畑起こしをする日勝。右側は兄・一明。(『画集 神田日勝』より)

なぜ農民である日勝は馬具をつけた馬を描かなかったのか。農民でない者なら描くだろう。日勝は描けなかったのだ。何十キロもの重い馬具を体につけた馬が可愛想で描けなかったものに違いない。だから、すべての馬の絵は一本の綱もつけない、素っ裸の馬になったのだろう。馬具をはずして楽になり、ゆったりとまどろんでいる裸馬の姿に、日勝は無意識のうちに自分自身を重ね合わせ、自分の人生を見ていたに違いない。

日勝の絵にひそむ哀しみの影には、8歳で戦火に追われて東京を出るときの死んでゆく人々の光景と、上の学校へゆかず農業をした開拓者の呻きとつらさがこめられていて、見る者を殴り倒すのである。

絵は見る者の人生をあぶり出してくる。さらに見る者の精神状態、体の状態によっても絵から受けるものは違う。ぼくの場合、見る絵が照射してくるものによって過去をさらけ出される気がし、無意識の底に沈んでいただろう世界をえぐり出されるのを感じる。

そのときに初めてぼくは、間に絵をはさんで画家の無意識とつながり、絵を体で感じるのである。

日勝をもっと知るためのブック・ガイド

イメージ((1)『神田日勝』神田日勝記念館所蔵作品図録 2000円(税込))
(1)『神田日勝』神田日勝記念館所蔵作品図録 2000円(税込)

①は、日勝作品とともに、佐藤友哉氏(北海道立近代美術館学芸部長)の文章が収録され、多面的に日勝にアプローチできるヒントがつまっています。

イメージ((2)『神田日勝―北辺のリアリスト』鈴木正實著 874円+税 北海道新聞社)
(2)『神田日勝―北辺のリアリスト』鈴木正實著 874円+税 北海道新聞社

②は日勝研究の第一人者が系統的に日勝を論じた評論で、制作の背景を含め、日勝の全体像に近づくことができます。

イメージ((3)『未完の馬』高橋揆一郎著 679円+税 十勝毎日新聞社)
(3)『未完の馬』高橋揆一郎著 679円+税 十勝毎日新聞社

③は前館長でもあった著者が『室内風景』に衝撃を受けた場面から始まり、ミサ子夫人、次姉登美子さんはじめ日勝を知る人々を訪問。日勝への心の旅ともいえる道程が芥川賞作家の精緻な筆で綴られています。記念館の菅さんも登場します。

イメージ((4)『私の神田日勝』神田ミサ子著 1553円+税 北海道新聞社)
(4)『私の神田日勝』神田ミサ子著 1553円+税 北海道新聞社

④は夫人が日勝との出会いから別れまでを記したもの。日勝の素顔と、わずか8年で死によって引き裂かれた夫婦の姿が切なく胸に迫り、夫婦とは何かを深く考えさせられる著作です。

イメージ((5)『画集 神田日勝』4660円+税 北海道新聞社)
(5)『画集 神田日勝』4660円+税 北海道新聞社

⑤は前館長・高橋揆一郎氏と日勝研究で知られる鈴木正實氏の評論で始まる、日勝の画業を網羅した画集。貴重なプライベート写真も見られます。ほかに、『北国願望 わが愛する美神たち』窪島誠一郎(1800円+税 北海道新聞社)は信州で美術館を運営する著者が北海道の画家の足跡をたどったもので、現館長・小檜山博さんとの対話も収められています。

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