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2001年11月号/第107号  [ずいそう]    

北海道愚感
関 頑亭 (せき がんてい ・ 彫刻家)

昨年の6月、友人の勧めもあり、北海道日高山脈の樂古岳(らっこだけ)に数人の仲間と挑戦することになった。橋のない川を何回と行き来する周囲の風物は太古の趣きがあり渓流で磨かれた水は心の垢を落すに充分である。何度も訪れた北海道であるが、40年程前、山口瞳さんと文藝春秋社の「なんじゃもんじゃ」取材で挿画を担当し訪れたときの山口さんの書き出しがこのようなものである。「日本に北海道があるということは何か救いになっているような気がする。九州、四国、北海道、すべてこれ、持ち味が異なる。そのなかでも北海道の存在は特異である。特異であって、何か自然である」。続いてこんなことも書いている。「北海道の光景というものは、何か胸を締めつけるようなところがある。牧草地、サイロ、赤い屋根、唐黍と馬鈴薯の畑、エゾマツ、ナラ、ブナ、カシワの林。女学生に愛されるのはそのためだろう」と結んでいる。

私も北海道には縁が深い。1967年にはサッポロ建設百周年に、石の彫刻を主にしている弟の関敏(せきびん)が南1条西1丁目に黒御影石で記念碑「指月」を制作、澤田政廣塾で同門の彫刻家故本田明二君や海陽亭宮松重雄さん、などなど。

山を案内いただいた友人の縁家、札幌の雲龍園に突然伺う事になった。雲龍園の木立の中に茸の様に自然物の様に待合茶席慶雲庵が寂然とあった。慈雲尊者の云う常に寂光に居す、と云うそのものである。迎える人のやさしい眼差し、形式をこえた自然の安堵感、人間と自然の調和年月を経て尚この清浄感は凡庸の作家のなせる業ではない。現代人がはるか昔に忘れ去ってしまった心をふたたび見付けた様な作家と使用者と自然が生み出した美しさ。私達の仕事でも自然を土台として視覚をこえた念(おもい)の年輪が大切である。食べること、味覚に関しては誰でもわかると思うが。刃物に切れ味、筆に書き味と云う様に、北海道の自然には味がある。その環境で生まれた北海道の人々のおおらかさも山口瞳さんの云う特異であって何か自然であると私も思う。

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